2024年12月14日
生徒:「『私やこの世界がなぜ存在しているのか?』という問いは、どうしてそんなに重要なんですか?」
先生:「それはね、ハイデッガーが、この問いの中に人間の本質を見ているからなんだよ。たとえば、自分が存在していなければ、そもそもこんな問いを立てること自体ができないよね?つまり、『なぜ存在するのか』を考える行為は、自分が存在している事実そのものから始まるんだ。」
生徒:「存在について考えるとき、なぜ問う自分自身も巻き込まれるんですか?」
先生:「いいところに気づいたね。それはね、この問いがただの知識を集めるためのものじゃないからなんだよ。自分自身がその問いの一部になるから、他人事みたいに扱えないんだ。たとえば、自分の人生について『どうしてこの道を選んだんだろう?』と考えるとき、自分の気持ちや経験を無視できないよね。それと同じで、『なぜ私は存在しているのか』と考えるとき、その問いを問う自分自身も深く関わっているんだ。」
生徒:「『存在の思索』って具体的にどういうことですか?」
先生:「『存在の思索』というのは、ただ『なぜ存在しているのか?』を考えるだけじゃなくて、もっと不思議なことが含まれているんだよ。実は、私たちが考えている間に、存在そのものが私たちに問いかけてくることがあるんだ。たとえば、夜空を見上げて『なんでこんな広い宇宙があるんだろう?』と考えたとき、その広がりそのものが何かを語りかけてくるように感じることってない?」
生徒:「ハイデッガーの『被投性』という言葉が難しいです。もう少しわかりやすく説明してもらえますか?」
先生:「もちろんだよ。『被投性』っていうのは、私たちが自分で選べない状況の中に、すでに投げ入れられているということなんだ。たとえば、私たちは自分の生まれる場所や時代、家族を選べないよね。それなのに、気づいたらもうここにいる。そういう状況が『被投性』なんだよ。そして、この現実は自分ではどうしようもないけど、その中でどう生きるかを決めるのは自分次第なんだ。」
生徒:「それなら、存在の問いに答えを見つけることはできないということでしょうか?」
先生:「そうだね。完全な答えを見つけることは難しいどころか、たぶん不可能だと思う。でも、だからこそこの問いには意味があるんだよ。問いを立て続けることで、存在そのものがどれだけ深くて不思議なものかに気づける。それに、ハイデッガーは、この問いを立て続けること自体が人間らしさの証だと考えたんだ。」
生徒:「存在の不思議って、どうしてそんなに特別なんですか?他のものと何が違うんでしょう?」
先生:「素晴らしい視点だね。存在の不思議が特別なのは、それがすべての説明や根拠を超えているからなんだ。たとえば、普通は『なぜこうなったのか』と理由を探せば、何かしら答えが出るよね。でも、『なぜ世界そのものが存在しているのか』という問いには、どんな理由をつけても根本的には説明できない。それが、ハイデッガーが『驚異中の驚異』と呼んだものなんだよ。」
生徒:「『驚異中の驚異』ってどういう意味ですか?」
先生:「例えば、私たちは普段、目の前のものが『ある』ということを当たり前だと思っている。でも、よく考えると、それがどうして『ある』のかは誰にも説明できないよね。ハイデッガーは、これを『深淵』と呼んだんだ。この『深淵』っていうのは、ドイツ語で『根拠が欠けている』って意味があるんだよ。要するに、存在そのものにはどんな説明も届かない部分がある。それが『驚異中の驚異』なんだ。」
生徒:「ということは、私たちが存在について考えること自体に意味があるということですか?」
先生:「正解だよ!ハイデッガーは、他の生き物や物と違って、人間だけが『存在の声』を聞き、その不思議さに気づける存在だと言ったんだ。存在について問い続けることで、私たちは自分自身や世界と深く向き合える。それが、ただ生きるだけではなく、真に人間らしく生きるための第一歩なんだよ。」