2025年2月12日

生徒:「現代思想でよく議論される『他者』の問題について、ドゥルーズ哲学はあまり語られないみたいですが、どうしてなんでしょう?」
先生:「ああ、『他者』ね。うーん……そうだな、ドゥルーズの哲学はね、『内在の哲学』って呼ばれるものなんだよ。超越的なものとか外部性みたいな考え方を基本的に否定する特徴があるんだ。だから、『他者』という概念が、彼の哲学の中心に出てこないように見えることが多いのかもしれないね。」
生徒:「では、ドゥルーズは『他者』について全然考察していないんですか?」
先生:「いや、それがね、実はそういうわけでもないんだ。うーん……ちょっと意外かもしれないけど、ドゥルーズは初期から晩年まで、一貫して『他者』を扱っているんだよ。たとえば、1967年に書いた『ミシェル・トゥルニエと他者なき世界』っていう論考があるんだけど、そこで『他者』を『可能世界の表現』として捉えているんだ。」
生徒:「『可能世界の表現』っていうのがちょっとピンとこないです。どういうことなんでしょう?」
先生:「そうだよね、なかなかイメージしづらいよね。えっと、たとえば君が公園を散歩していると想像してみて。目の前には芝生やベンチがあって、まあそれが君の目に映る風景だよね。でも、その風景の背景には木々や空が広がっているし、さらにその奥には、直接見えない建物や遠い山々があるかもしれないよね。」
生徒:「はい、なんとなくわかります。」
先生:「その『直接見えないもの』とか、『そこにあると感じられる広がり』を可能にしているのが、ドゥルーズが考える『他者』の役割なんだ。言い換えると、他者は私たちの知覚や欲望を形作る背景そのものなんだよ。」
生徒:「背景がなくなると、どうなるんですか?」
先生:「いい視点だね。もし他者がいなかったら、どうなるか……たとえば、君が散歩しているときに芝生だけが見えて、その先の木々や空の広がりを感じ取ることができない状態になるんだ。これをドゥルーズは『知覚が絶対的な平面に固定される』って表現している。ちょっと窮屈に感じるよね?」
生徒:「確かに、すごく息苦しそうですね。」
先生:「そうなんだ。だから他者がいることで、私たちは世界を広がりやつながりのあるものとして感じ取れるんだ。それって実はすごく重要なことだと思う。」
生徒:「では、『差異と反復』では『他者』はどんな役割を持っているんですか?」
先生:「『差異と反復』ではね、他者は『包み込みの中心』として扱われているんだ。これ、ちょっと難しい言い方だけど、世界にある多様性や差異をつなぎとめる役割って言えるかな。たとえば、景色が少しずつ変化していくときに、その変化を滑らかに感じられるのは、他者がそのつながりを支えているからだっていう考え方なんだよ。」
生徒:「でも、ドゥルーズは最終的に『他者』を否定する必要があるとも聞きました。」
先生:「そうだね。それもいい視点だね。ドゥルーズは最終的に、他者が私たちを既存の枠組みに縛り付けるものだと考えたんだ。だから、その枠組みを乗り越えることで新しい視点を得られるとしたんだよ。これが『非物体的な表面』っていう概念に繋がってくる。」
生徒:「『非物体的な表面』って、どういうものなんですか?」
先生:「簡単に言うとね、それは物事の固定された意味や用途から自由になることなんだ。たとえば、リンゴを見たときに普通は『食べたい』とか『赤い』って思うでしょ。でも、『非物体的な表面』では、そのリンゴを用途や属性じゃなくて、もっと自由な視点で捉えるんだよ。その存在そのものや、そこに広がる可能性を感じ取る状態っていうのかな。」
生徒:「それって、なんだか新しい見方ですね。」
先生:「そうなんだ。1970年代以降の『千のプラトー』なんかでは、この考え方がさらに発展している。物事を固定化せずに、もっと自由に組み合わせたり、可能性を探求する視点を生み出しているんだよ。」
生徒:「ドゥルーズにとって『他者』ってどんな存在だったんでしょう?」
先生:「それはね。他者は私たちが世界を広がりのあるものとして知覚し、欲望するために必要な仕組みだったんだ。ただし、最終的にはその枠組みを超えて、新しい世界観や自由な思考を追求しようとした。それがドゥルーズ哲学の面白さであり、挑戦でもあったんだよ。」