2025年10月14日

なぜオスマン帝国は近代化を選んだのか?
タンジマート改革の理想と限界、その背景にある「西洋化」との葛藤
19世紀、かつての威光を誇ったオスマン帝国は、もはやかつての姿とは大きく異なっていた。ギリシア独立戦争(1821年)やエジプトのムハンマド・アリー政権の台頭、さらには列強の干渉が相次ぎ、「ヨーロッパの病人」とも揶揄されるようになる。このような外圧と内的疲弊の中で、帝国の存続をかけた選択が求められていた。
その一つの答えが、1839年のギュルハネ勅令に始まるタンジマート改革である。「帝国の再編成(タンジマート)」を意味するこの改革は、西洋型の中央集権国家をモデルにした抜本的な制度改革を目指した。単なる模倣ではなく、「帝国が帝国であり続けるための、消去法的な選択」だったと見ることもできる。
具体的改革とその広がり
改革の柱は、以下の通り多岐にわたっていた。
法の平等化:従来の宗教や身分に基づく法的差異を撤廃しようとし、イスラム法に代わる法典としてメジェッレ(民法典)が1869年から編纂された。また、イスラム教徒と非イスラム教徒が共同で裁かれる混合裁判所の設置も行われた。
徴税制度の改革:土地に基づく徴税制度であったティマール制を廃止し、国家による直接課税を目指した。これは徴税権を持っていた地方のアヤーン層の反発を招くことになる。
軍制改革:1826年には伝統的軍団イェニチェリが廃止され、以降は常備軍と徴兵制度の整備が進められた。
教育制度の整備:西洋式の高等教育機関として帝国高等学校(Mekteb-i Sultani)が設立され、近代的官僚の育成が試みられた。
これらの改革は、1856年のハット・ヒュマーユーン(改良勅令)でさらに推し進められた。この勅令は、クリミア戦争(1853〜1856)後の列強の圧力によって発布されたもので、改革が外圧によって「加速された」側面も無視できない。
理想と限界――その矛盾に潜む構造的問題
タンジマート改革の理念は高かったが、その実行には常に困難が伴った。特に、多民族・多宗教社会であるオスマン帝国に、西洋型の同質的な国民国家モデルをそのまま導入しようとしたこと自体に、根本的な不整合があった。
また、バルカンやシリアでは改革を「中央集権の押し付け」と受け止めた反発も強く、民族運動の活発化や反乱が相次いだ。宗教的保守層や地方の有力者たちは、自らの権威と特権を守ろうと抵抗を続けた。
さらに、戦争による財政悪化を背景に、帝国は列強から借款を繰り返し、1860年代には債務不履行に陥る。これにより設立されたオスマン債務管理局(1881年)は、帝国の経済主権を実質的に列強に委ねる形となった。つまり、改革は「帝国の独立を守る手段」であるはずが、「干渉を正当化する口実」にもなってしまったのである。
改革の評価とその射程
タンジマート改革は、結果としてオスマン帝国を救うことはできなかった。しかし、それが無意味だったとは言えない。制度の近代化は不完全ながらも一定の成果を残し、近代的な教育制度や法体系は後の青年トルコ運動やトルコ共和国の建国へとつながっていく。
この改革は、「どうしてもうまくいかなかった改革」としてではなく、「それでも変えようとした意志の表れ」として評価されるべきだろう。歴史は、成功か失敗かという単純な二分法では語りきれない。
結びにかえて
タンジマート改革は、西洋との力関係の中で迫られた「選択肢の少ない改革」だったのかもしれない。それでも、帝国が自らの未来に向き合い、変革を試みたその姿勢には、今日の私たちにも示唆を与える力がある。歴史を読むとは、過去の中に今を照らす光を見出すことなのかもしれない。