『君の膵臓をたべたい』感想|明日が来ると信じなければ生きられない理由

『君の膵臓をたべたい』感想|明日が来ると信じなければ生きられない理由

明日が来ると信じなければ、人は生きられない

学校へ向かう朝の道は、だいたいいつも同じだ。 少し欠けた歩道の白線。毎朝、決まった時間に吠える犬。信号待ちで聞こえる、自転車のブレーキ音。

特別なことは何も起きない。 正直、退屈なくらいだ。

それでも、こうした朝が、これからも当たり前のように続くと、ほとんどの人は疑わない。 疑わない、というより——疑うのが面倒なのかもしれない。

疑ってしまったら、学校へ行く理由も、宿題をする意味も、明日の予定も、急に頼りなくなる。 それを一つひとつ考え直すくらいなら、「まあ、明日は来るでしょ」と思っていたほうが楽だ。

テスト前日に「明日の朝でいいや」と思えるのは、明日の朝が来ると信じているからだ。 友達に謝るのを後回しにできるのも、「また今度」がちゃんと残っていると思っているからだ。 部活を一日休んでも、「次がある」と考えられるのは、次がなくなる可能性を深く考えなくてすむからだ。

人は、「明日が来る」という前提なしには生きられない。 これはきれいな言葉だけど、実際は、かなり雑な前提でもある。

桜良は、その前提が壊れた場所に立っていた

『君の膵臓をたべたい』の桜良は、膵臓の病気で余命が限られていた。 それでも彼女は、病気のことを周囲に打ち明けず、学校で笑い、恋バナに混ざり、先の予定を口にする。

「来週のカラオケ、楽しみだね」 「夏休み、どこか行こうよ」

その言葉が、どれほど危ういかを、桜良自身が一番よく分かっていたはずだ。 来週も、夏休みも、来ないかもしれない。 それでも彼女は、「明日が来る人」のふりをやめなかった。

前向きだったからでも、強かったからでもない。 もし毎日、「これが最後かもしれない」と言い続けていたら、誰も普通に話せなくなる。 冗談も、愚痴も、どうでもいい会話も、空気ごと固まってしまう。

日常は、「明日も続く」という思い込みの上に、かなり雑に乗っかっている。 丁寧に積み上げたものというより、だいたいの感覚で保たれているものだ。

桜良は、その不安定さを知っていた。 だからこそ、自分のためというより、周囲の人の日常を壊さないために、明日が来るふりを選び続けた。

私たちは、別の形で同じ前提に頼っている

多くの人は、桜良とは逆の場所にいる。 明日が来ると疑わないからこそ、今日を少し雑に使える。

「また今度でいい」 「そのうちやればいい」

この言葉たちは、便利だ。 ちょっと逃げ道っぽいけれど、正直、助かる。

その雑さがあるから、人は息切れせずに日常を続けられる。 もし毎日を「これが最後かもしれない」と思いながら生きていたら、途中で嫌になる。

でも、その雑さは、ときどき大切なものを見えにくくする。 いや、見えなくするというより、「あとでいいや」と棚に置いてしまう感じに近い。

親に「ありがとう」と言うのを先延ばしにするとき。 会話を途中で切り上げるとき。 その判断の裏側には、「まあ、明日はあるでしょ」という、はっきりしない確信がある。

それが悪いとは言えない。 でも、それで本当に大丈夫かと聞かれたら、少し黙ってしまう。

問いとして残るもの

「また明日ね」と別れるとき。
その明日が必ず来ると、なぜ疑わずにいられるのか。

朝起きて、「今日が最後の日かもしれない」と考える人は、ほとんどいない。
考えないから、普通に学校へ行ける。普通に笑える。普通に、どうでもいい話もできる。

その「考えない」という選択を、私たちは毎日している。
意識的にではなく、ほとんど反射のように。

桜良も、同じ選択をしていた。
ただ一つ違うのは、それが無意識ではなかったことだ。

明日が来ないかもしれないと知りながら、明日が来るふりをする。
周囲の人が考えなくてすむように、自分だけが考え続ける。
その姿は、たしかに優しさだったのだと思う。

でも、その優しさは、誰のためのものだったのだろう。

もし真実を知っていたら、もっと真剣に向き合えた人がいたかもしれない。
もっと成長できた人がいたかもしれない。
あるいは、何も変わらなかったかもしれない。

それは分からない。
分からないけれど、「優しかったから正しかった」と言い切ってしまうのは、少し乱暴な気もする。

桜良の選択は、美しい。
同時に、少しだけ怖い。

誰かの日常を守るために、自分の本音を消し続ける生き方は、
本当に、誰にでも許されるものなのだろうか。

答えは出ない。
ただ、その答えの出なさごと抱えて生きていくしかない。

明日が来ると信じながら、
それを失う可能性から目を背けて生きる。

その矛盾の中で、桜良は、誰よりも日常的で、
誰よりも不自然な選択をし続けた人だった。