2025年6月28日

今日取り上げるのは、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリによる哲学書『アンチ・オイディプス』です。この本は、その難解さで知られていますが、実は現代に生きる私たちにとって、非常に実用的なヒントを与えてくれる一冊でもあります。特に、“学び”や“欲望”に対する見方を根本から問い直すという点で、非常に刺激的です。
まず注目したいのが、「欲望」という言葉の捉え方です。一般には、欲望とは「何かが足りないから求めるもの」として理解されがちです。しかし、この本ではそうではありません。欲望とは欠如ではなく、生産する力、つまり創造のエネルギーであると捉え直すのです。
この発想を勉強に応用してみましょう。例えば、「点数が足りないから頑張らなければ」という姿勢も一つですが、それだけでは息が詰まってしまうこともあるでしょう。それよりも、「もっと深く知りたい」「今までと違う視点で考えてみたい」といった内発的な欲望が学びを豊かにする、ということが本書の主張と重なります。
次に、この本の中心概念のひとつである「無意識」の扱いです。フロイト的な考えでは、無意識とは内面に潜むドラマのようなものとされますが、『アンチ・オイディプス』ではそうではありません。無意識は工場のように、思考や感情を“生産”している装置だと考えられているのです。
たとえば、「やる気が出ない」と感じるとき、それは意志の欠如ではなく、別のプロセスが無意識的に稼働している状態とも言えます。つまり、やる気のなささえも、ある種の“生産物”であるというわけです。この視点は、精神的な停滞を「失敗」ではなく「構造」として捉え直す柔軟さを私たちに与えてくれます。
また、本書では人間の主体性についても再考が促されます。私たちは「自律した個人」として行動していると考えがちですが、ドゥルーズとガタリはそうした見方に懐疑的です。人間とは、欲望の流れを通過させる“媒体”であり、その欲望は社会や制度によって配管されているというのです。
たとえば、学校制度や進路指導といった教育の枠組みも、単なる「選択の自由」ではなく、欲望を一定の方向へ導く“配管装置”として機能しているという見方ができます。「なぜこの進路を選びたいのか?」ではなく、「この社会は私を通して何を作ろうとしているのか?」と問い直すこと。そうすることで、私たちはより広い視野から自分の位置づけを見直すことができるようになるのです。
さらに重要なのが、ドゥルーズとガタリの家族観です。彼らは、「父・母・子」という三角関係の構造に、無理やり欲望を閉じ込めようとする近代的な精神分析の限界を批判しています。そして、欲望は自由に異なる要素と“接続”されるべきだと主張します。
たとえば、数学と音楽、科学と芸術、あるいは日常会話と空想の世界。こうした異質なものをつなぎ直すことで、新たな思考が生まれる。この“接続の自由”こそが、創造的な学びの本質だといえるでしょう。
最後に、この本が伝える哲学の核心を押さえておきましょう。哲学とは、正解を学ぶことではありません。思考の回路そのものを組み替えること、つまり“考えるエンジン”を改造する技術なのです。それは、知識を増やすというよりも、ものの見方や感じ方を柔軟にする訓練です。学びとは本来、そうした知的な“再構築”の作業なのではないでしょうか。