「友達といても疲れる」に、カントが200年前に答えていた

「友達といても疲れる」に、カントが200年前に答えていた

「あなたは、誰かのための道具じゃない」

「なんか最近、友達といても疲れるな」

そう感じたことが、一度くらいあるんじゃないかと思う。

たとえば、グループのLINEで自分だけ話題についていけなくて、とりあえず「笑」ってスタンプを送る夜。

話したいわけじゃないのに、外れるのが怖くて笑っている放課後。

その子のことが好きというより、その子のそばにいる自分に、なんとなく安心している——そんな自分に気づいたとき。

そういうとき、なんか虚しいんだよな。

その虚しさは正しい。ひとりになるのが怖くて、好きでもない空気に合わせているとき、心のどこかがちゃんとそれを知っている。相手を「人間」としてじゃなく、「ひとりにならないための保険」として使っているって。

200年以上前、カントという哲学者が言った。

「人間を、ただの手段(道具)として扱ってはならない。かけがえのない存在として扱いなさい」

むずかしい話じゃない。

うまくできる日だけ価値があるわけじゃない。役に立てるから大事なんじゃない。ただそこにいるだけで、もうすでにそれでいい——そういうことだ。

SNSも同じだ。「いいね」の数で人を測るとき、画面の向こうに顔がなくなっていく。顔が見えなくなると、言葉は思っているより簡単に刃になる。そして不思議なことに、誰かを傷つけようとしているとき、自分の中の何かも静かに削れている。

ただ、「道具扱い」で一番きついのは、自分自身にやってしまうことかもしれない。

「いい点を取るための機械」「誰かの期待に応えるためのいい子」として動き続けて、結果が出なかった瞬間に「自分はダメだ」と思う。それは当然で、壊れた道具みたいな感覚だからだ。

でも、あなたは道具じゃない。

テストの点数がどうでも、今日うまくいかなくても、挑戦したあなた自身の価値は何も変わっていない。交換できる部品じゃなくて、代わりのいない人間だ。カントが言いたかったのは、たぶんそれだけのことだ。

すぐには変わらないと思う。

明日からいきなり、全部の関係が本物になるわけじゃない。保険のためにスタンプを送ることも、まだあるだろう。数字が気になる夜も、また来る。

それでも、一瞬だけでいい。

「この人は今、何を感じているんだろう」と思えた瞬間がある。「よくやったな、自分」とひと言だけかけられた日がある。

その一瞬は、本物だ。

きれいごとじゃなく、その積み重ねしかたぶんない。でも、それで十分だとも思う。

あなたは誰かのための道具じゃない。あなたの隣にいる人も、そうじゃない。カントが伝えたかったのは、たぶんそういうことだ。