2025年5月3日

歴史的事実は誰が決めるのか
歴史は事実の集積である。――そんな言い方を耳にするたびに、どこか曖昧な違和感が残る。事実とはそもそも、誰にとっての、どのような事実なのか。歴史の中に「意味あるもの」として残る事象は、あらかじめ選ばれたごく一部でしかない。その選別は、誰が、いつ、どんな基準で行っているのだろう。
シーザーがルビコンを渡った、というのは有名な話だ。しかし、その川を渡ったのは彼だけではない。兵士たちも渡った。農民も旅人も、名もなき人々が行き交った。なのに、歴史書に載るのはシーザーの一歩だけ。それは、あの一歩が時代の流れを変えたからだ、とはよく言われる。けれど、それを「流れを変えた」と見なしたのは誰か。
「事実は語る」という言葉がある。だが正直に言えば、事実は黙っている。棚の奥にしまい込まれた古い封筒のように、手に取られ、開封され、読まれて初めて意味を持つ。封筒が破れていても、中身がかすれていても、それでも「何か」として扱われるのは、読む側が意味を欲したときだけだ。
正確であることは大切だ。間違った日付では歴史は歪む。けれど、それだけでは足りない。どの出来事に意味を見るのか、どれを無視するのか。その判断が歴史を形づくる。木材がまっすぐでも、積み上げ方を間違えれば家は建たない。つまり、歴史家は建材を選ぶ設計者であり、ある意味では演出家でもある。
それに、歴史には黙っている部分が多すぎる。語られなかった出来事、意図的に避けられた声、都合の悪い沈黙。語られた事実よりも、語られなかった事実のほうが雄弁であるかもしれない。そう考えると、「歴史的事実」とは何なのか、あやふやになる。
いや、そもそもそういう問いを抱くこと自体が、歴史を読むということなのかもしれない。何が選ばれ、何が棄てられたのか。その線引きに、人の手があるという事実を、私たちは忘れてはならない。
歴史は編まれた布のようなものだ。選ばれた糸だけが模様になる。が、その裏側には、切られた糸や結び目、隠された補修の跡がある。それもまた布の一部であり、語られなかった歴史だ。
完璧な真実など、最初からないのかもしれない。あるのは、語ることと、語られなかったこと。その間で揺れながら、私たちは何かを信じようとする。ただ、それだけのことではないか。