理性の地図を描く――カントが発見した「考えること」の正しい使い方 【純粋理性批判】

理性の地図を描く――カントが発見した「考えること」の正しい使い方 【純粋理性批判】

理性の地図を描く――カントが発見した「考えること」の正しい使い方

「人間には魂があるのか?」
こういう問い、真面目に考え込んだことはありますか?
考えれば考えるほど、かえって混乱してくる気がしませんか。

18世紀の哲学者カントは、まさにこうした「考えても答えが出ない問い」に向き合った人でした。
たとえば数学なら、2+2=4。これに疑いをもつ人はいません。でも「魂」や「宇宙の始まり」といったテーマになると、途端に話はあやふやになります。なぜでしょう?

理性だけじゃ、たどり着けない場所がある

カントの答えは、意外とシンプルです。
「知る」には材料がいる。

つまり、まずは感覚――見たり、聞いたり、触ったり。これが出発点です。
でもそれだけでは足りません。バラバラの感覚を「これは机だ」「あれは音だ」とまとめる働きも必要です。それが理性。

この二つが揃って、私たちは初めて何かを「知る」ことができる。

逆に言えば、感覚で確かめようのないもの――たとえば魂や宇宙全体について――は、理性だけで考えても「知る」には至らない、ということです。

この考え方、当時はわりと衝撃的でした。
それまでは「理性があれば世界のすべてを理解できる」と信じていた人も多かったからです。

見える世界と、その向こう

ここでカントは、大切な区別を導入します。

  • 私たちが経験できる世界 → 現象

  • その向こうにある、経験できないもの → 物自体

たとえるなら、私たちは誰もが一枚の「色つきメガネ」をかけて生きているようなもの。
そのメガネ越しに見る世界――たとえば空の青さや机の硬さ――は、はっきりと知覚できます。でも、そのメガネを外した先にある「世界そのもの」には、手が届かない。

しかも、このメガネは外せない。そういうふうに、私たちの認識はできているんです。

理性が迷い込む罠――アンチノミー

さて、「宇宙には始まりがあるのか?」という問いをもう一度考えてみましょう。

カントによれば、この問いは理性が本来の範囲を超えたときに生じる矛盾をよく示しています。
というのも、どちらの立場にもそれなりに説得力があるからです。

  • 始まりがある:無限の過去があったとしたら、「今」にはたどり着けないはず。だから始まりはある。

  • 始まりがない:でも、何もないところから宇宙が始まるなんて、おかしい。だから始まりはない。

両方とも、どこか納得できそうに思えますよね?
けれど、両立はしない。これがカントの言う「アンチノミー」、つまり理性の自己矛盾です。

これは単なる意見のぶつかり合いではなく、理性が扱えない領域に踏み込んだことで起こる構造的な問題だとカントは見抜いたのです。

理性の限界を描くということ

では、カントがやろうとしたことは何だったのか。
それは、理性の使える範囲をはっきりさせることでした。

「ここまでは確実に言える」「ここから先は、理性ではどうにもならない」――そんな地図を描こうとしたわけです。

一部の哲学者からは「理性への冒涜だ」と反発されたこともあったようですが、カントは逆にこう考えました。
限界を知らない理性は、かえって暴走する。
でも、限界を理解した理性は、むしろもっと強く、確実に働ける。

「証明できないけど、大事なもの」がある

ここで注意したいのは、カントが「魂や自由を考えるな」と言ったわけではないことです。

彼はこう言います。

  • 魂や自由のようなものは、理論的には証明できない

  • でも、それでも信じる理由がある

たとえば「自由」。私たちは自由意志で行動していると思っていますが、脳も身体も物理法則に従って動いている――という見方もあります。

では自由なんて幻想なのか?
もしそうなら、「善いことをしよう」という道徳の考え方自体が揺らいでしまいます。責任という概念が立ち行かなくなる。

だからカントは、「自由は科学的に証明はできないけれど、道徳を成り立たせるためにどうしても必要な前提だ」と考えました。

「わからない」を受け入れる力

カントが教えてくれるのは、たぶんこういうことです。

理性は万能じゃない。
でも、その限界を知ったとき、かえって深く物事を考えられるようになる。

「わからないこと」を認めるのは、逃げでも敗北でもありません。それは、考えることへの誠実さです。

そして、「証明できないけれど、大切にするべきものがある」と判断することも、理性の立派な仕事のひとつなのです。