【純粋理性批判】経験しなくてもわかることってあるの?――カントの「認識の枠組み」を考える

【純粋理性批判】経験しなくてもわかることってあるの?――カントの「認識の枠組み」を考える

経験しなくてもわかることってあるの?――カントの「認識の枠組み」を考える

経験しなくてもわかることってあるの?――カントの「認識の枠組み」を考える

「すべての出来事には原因がある」。多くの人が、そう言われれば納得するでしょう。でも、それは本当に、たくさんの経験を通じて学んだことなのでしょうか?

たとえば、初めてガラスが割れるのを見たとき、多くの人は「何かがぶつかったのかもしれない」と自然に思います。これは私たちにとってあまりにも当然の反応です。しかし、それは本当に「あとから学んだ結果」なのでしょうか?
あるいは、「何かを経験するには、そもそも“原因を想定する”という枠組みが最初から必要なのではないか?」――そんな問いを立てたのが、18世紀の哲学者イマヌエル・カントです。

カントが問うたのは、「私たちはいつ、ある知識を得たか」ではなく、「そもそも経験が成立するには、どんな条件が必要か」ということでした。これは心理学的・生物学的な「遺伝か学習か」という問題ではなく、哲学的な問題です。

カントは、私たちの知識には2つの種類があると述べました。
一つは「ア・ポステリオリ(後天的)」な知識――たとえば「火は熱い」といった、経験から得られるもの。
もう一つは「ア・プリオリ(先天的)」な知識――経験に先立って、経験を可能にする枠組みとして、すでに私たちの認識に備わっているものです。

たとえば、因果律――「出来事には原因がある」という考え方は、カントにとってはア・プリオリなものです。経験から導き出されたのではなく、むしろ経験そのものを成り立たせるための前提条件なのです。

なぜそう言えるのか?
この点で重要なのが、ヒュームとの違いです。ヒュームは、「原因と結果のつながりは、習慣にすぎない」と述べました。何度も火に触って熱いと感じるから、私たちは火を見ると「熱いだろう」と思う。そこに必然性はないというのです。

しかしカントはこれに反論します。たとえば、「ボールを投げた→窓が割れた」という2つの出来事を、単なる時間的な並びではなく「原因と結果」として理解できなければ、「経験」として統一的に把握することができない。つまり、因果律がなければ、私たちは経験を一つの出来事として捉えることすらできないのです。

このように、私たちの経験は、単なる受け取りではなく、時間・空間・因果といった“枠組み”を通して成り立っている――これがカントの主張です。

私はこの「枠組み」という考え方を、映画を映すスクリーンになぞらえて考えています。どんなに美しい映像も、スクリーンがなければ映し出されません。同様に、私たちが世界を経験するには、「時間」や「空間」といった枠組みが必要なのかもしれません。

数学についても、カントはア・プリオリな知識だと考えました。
たとえば「2+3=5」は、誰にとっても自明のように思えますが、それは数を「1、2、3…」と順に並べていくという時間的な継起の中での直観があるからだと、カントは考えました。数えるという行為は「次、次、次」と展開する時間の中で成り立っており、その直観的な構造があるからこそ、数学の知識は普遍的で確実なのです。

このように、カントは私たちの「知っている」という感覚の背後に、無意識に働く認識の枠組みを探りました。そして、それがなければ、世界を経験すること自体が不可能になると主張したのです。

しかし、ここで一つの恐ろしい問いが浮かびます。
私たちが世界を経験するには枠組みが必要だとするならば――その枠組みの外にある“本当の世界”は、私たちには決して知ることができないのではないか?
カントは、この枠組みの外側にあるものを「物自体(Ding an sich)」と呼び、それは原理的に認識不可能だと述べました。

世界を知るということは、世界の“見え方”のしくみを知ること。そして同時に、「どこまでしか見えないか」を知ることでもあります。
カントの問いは、単に哲学的な思考実験ではなく、私たちのあたりまえの理解を根底から問い直す、深いインパクトをもっています。