2025年11月10日

私たちは本当に世界を見ているのか?――カント哲学の「現象」と「物自体」
私たちはふだん、目で見えるもの、耳で聞こえるものを「現実」として信じています。けれど、それは本当に「世界そのもの」なのでしょうか?
この素朴だけれど根本的な問いに、18世紀の哲学者イマヌエル・カントは真剣に向き合いました。
私たちが何かを認識するとき、それは「感性」と「悟性」という2つのはたらきを通して構成されている、とカントは考えたのです。
感性とは、物事を感じ取る力。私たちは、空間と時間という「形式」を使って物事を捉えます。たとえば、「あの建物は右にある」「昨日こんなことがあった」などと考えるとき、空間と時間がすでに働いているのです。これは外から与えられたのではなく、私たちがもともと持っている“認識の型”だとカントは考えました。
一方で、悟性は、感じ取ったものに意味を与える力です。たとえば「これは本だ」「その音は誰かが落としたものだ」と判断するとき、因果性や統一性などの「カテゴリー」を使っていることになります。もしこの悟性がなければ、私たちの感覚はただのバラバラな印象にすぎないのかもしれません。
こうして感性と悟性が協力することで、私たちは「世界を経験する」ことができる――それがカントの主張でした。この経験された世界を、彼は「現象」と呼びました。つまり、私たちが見ている世界は“そのまま”ではなく、“人間のレンズ”を通して形作られたものなのです。
たとえば、メガネをかけて外の風景を見るようなものかもしれません。メガネがなければ何も見えませんが、かけていること自体は意識されにくい。その“メガネ”こそが、空間・時間・カテゴリーなのです。
では、その現象の奥にある「本当の世界」、つまり「物自体」とは何なのでしょうか?
カントは、「物自体は存在するが、私たちはそれを直接知ることはできない」と述べました。しかし、この考え方にはさまざまな解釈があります。カント自身の文章も一貫しているとは言えず、後の哲学者たちはこの問題をめぐって長く議論を続けてきました。
それでもカントが私たちに伝えようとしたことは明快です――人間の理性には限界があるということ。そして、その限界を知ることが、むしろ本当の「知ること」の始まりなのではないでしょうか。
私たちは本当に“見る”ことができているのでしょうか?
その問いを考え続けるとき、私たちもまた、カントの問いを今の時代に引き継いでいるのかもしれません。