エジプト近代化の真実 ムハンマド・アリーの夢と列強の干渉

エジプト近代化の真実 ムハンマド・アリーの夢と列強の干渉

ムハンマド・アリーの夢と帝国の罠――エジプト近代化の光と影

19世紀初頭、ナイルの流れのほとりに立つ一人の男が、彼の国の未来をじっと見つめていた。ムハンマド・アリー、オスマン帝国の一地方であったエジプトの新たな支配者。彼の目には、この肥沃な土地に眠る可能性と、荒れ果てた現実とのギャップが映っていた。

「この国は変わらなければならない」と彼は決意した。軍は旧式で脆弱、農業は搾取的で非効率、教育はほとんど機能していない。彼の構想は野心的だった。フランスから教官を招いて軍を西欧式に再編成し、造兵廠と軍需工場を建設。国内には官営の綿花加工工場が立ち並び、少年たちは新たな官僚や軍人となるべく、教育機関へと送り込まれた。

しかし、この改革は必ずしも祝福された未来だけをもたらしたわけではない。農民たちは綿花栽培に駆り出され、重税と強制労働にあえいだ。記録によれば、改革期の軍は最大で13万人を超え、国家予算の多くを軍事に費やしていた。

一方で、彼の視線は国境の向こうにも向けられていた。かつてオスマン帝国から約束されたクレタ島の統治が反故にされたことに不満を抱いていた彼は、代償としてシリアの支配を望んだ。1831年、彼はついに軍を動かす。アッカを包囲し、ダマスカスへと進軍したその進撃は、まさに帝国の中の“帝国”を彷彿とさせる。

だが、この快進撃はヨーロッパ列強の警戒を呼び起こす。イギリス、ロシア、オーストリアが介入し、1840年のロンドン会議で、彼の領土はエジプトとスーダンに限定されることになった。彼の家系に総督位の世襲が認められたとはいえ、ムハンマド・アリーの「独立国家」構想は、帝国主義の現実の前に封じ込められたのだった。

彼の死後、エジプトは一見さらなる繁栄の道を歩んだ。孫のイスマーイール・パシャは「パリをナイルに再現する」と宣言し、鉄道、学校、裁判所を建設。1869年には、スエズ運河がついに開通した。しかしその代償は、天文学的な外債であった。当時の国債残高は1億ポンドを超え、利子の支払いに追われた国家は、ついに財政管理を英仏の代表団に委ねる。

やがて民衆の不満は臨界点に達する。1881年、アフマド・ウラービーという名もなき軍人が立ち上がった。「エジプトはエジプト人のものだ!」という叫びは、軍内部、都市中間層、さらには農民の一部にも広がっていった。彼らは憲法の制定、外国勢力の排除、財政の回復を掲げ、近代国家を求める最後の賭けに出た。

だが、列強は動じなかった。1882年、イギリスは軍を派遣し、ウラービーを捕らえ、カイロを制圧。以後、エジプトはオスマン帝国の名のもと、実質的にはイギリスの支配下に置かれることとなる。

ムハンマド・アリーの夢は、果たして「独立」だったのか、それとも「オスマン帝国内での主導権」だったのか。彼の行動をどう解釈するかは、今も歴史家の間で議論が分かれる。だが一つ確かなのは、彼の近代化は民衆の犠牲の上に築かれ、列強の戦略的利益によって制限されたということである。

エジプトの近代化の歩みは、日本の明治維新やオスマン帝国のタンジマート、ロシアの大改革とはまた異なる道をたどった。列強との距離、宗主国との関係、そして財政基盤の脆弱さ。これらが複雑に絡み合い、近代化は「自立」ではなく、「新たな従属」への道にすり替えられていった

現代に問いかけるのは、国家が自らの力で立ち上がろうとするとき、外からの干渉と内からの矛盾をいかに乗り越えるかという根源的な問いである。そしてその答えは、ムハンマド・アリーの描いた夢の中に、あるいは彼の失敗の中に、隠されているのかもしれない。