2024年11月14日
時計の針が規則正しく刻む音に耳を傾けていると、見えない流れがそこに確かにあるような気がします。朝が昼へ、昼が夜へと移り変わり、昨日が今日に繋がっていく。その変化の中で私たちは「時間が流れている」と信じて疑わない。あまりにも当たり前すぎて、意識さえしないほどに。しかし、ふと疑問が湧いてきます―「時間」とは本当に存在するものなのだろうか。それとも、私たちが経験を整理するために編み出した幻想に過ぎないのか?
この問いを思い巡らせるたびに、18世紀の哲学者カントの考えが頭をよぎります。彼は時間を「私たちが外界を認識するための枠組み」と捉え、「私たちの意識にしか存在しないものだ」とした。この考え方には共感する部分もある一方で、妙な違和感も感じます。もし時間が幻想だとするならば、思い出や未来への期待は一体どこにあるのでしょう?それは私の錯覚にすぎないというのでしょうか。
そんな疑問にとらわれたある日の午後、私はお気に入りのカフェで読書をしていました。ふと顔を上げると、窓の外には人々が忙しなく行き交い、慌ただしい時間が流れているように見えました。けれど、その瞬間、まるで私だけが時の流れから取り残されたかのような、妙に静寂に包まれた感覚が訪れたのです。まさに「時間が止まった」という表現がぴったりで、カントの「時間は幻想だ」という言葉が現実味を帯びた気がしました。
一方で、フランスの哲学者アンリ・バーグソンは、時間を「持続」として捉えました。彼にとって時間とは、時計の針が刻むものではなく、私たちの心の中で絶えず流れ続ける感覚そのものでした。この考えに触れると、私はふと別の夕暮れを思い出します。あの日、橙色に染まる空の下、光がまるで世界を優しく包み込むかのようでした。あの美しい夕陽がいつまでも続いてほしいと願いながらも、それが叶わないことに胸が締め付けられる。その哀しみのような感情―もしかすると、それこそがバーグソンのいう「持続」なのかもしれません。
「もし時間が幻想なら、過去や未来はどこにあるのだろう?」そう自問していると、ふとした仮説が浮かびました。過去も未来も、ただ「今」という瞬間を引き立たせるための影絵のような存在なのではないか。友人と笑い合う瞬間、窓の外に目を向けるひととき―そのすべてが、「今」を照らし出すための舞台装置なのかもしれません。
考えを巡らせるうちに、「もし時間が存在しないのなら、私は一体誰なのだろう?」という問いが心を掠めました。過去が私を形作り、未来が私を導くと思っていたけれど、もしそれらが幻想なら、私の存在とは何なのか?その問いに向き合ったとき、まるで足元が崩れ去るような不安が襲ってきました。でも、同時に、「今」という瞬間だけに全力で身を委ねることこそが、生きる本質かもしれない―そんな感覚が芽生えました。
もしかすると、時間に縛られず、「今」をただ感じ取ることが、私たちが本当の意味で「存在する」ことなのかもしれません。