2026年10月5日
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エレベーターを待つ30秒。電車が来るまでの2分。問題集のページをめくって、次の問題が難しそうだと分かった瞬間。気がつくと、手はもうスマホを握っています。 これを「意志が弱いから」で片づけるのは簡単です。けれども、スマホどころか電気もなかった時代に、この手の動きをそのまま書き留めた人がいました。ブレーズ・パスカル(1623〜1662)。およそ400年前のフランスに生まれた数学者・物理学者で、死後に編まれた断章集『パンセ』の著者です。
この記事の見立ては一つです。スマホが人間を変えたのではない。人間がもともと持っていた性質に、スマホがあまりにもぴったりはまったのだ、と。
パスカルが観察したのは、17世紀の貴族たちです。彼らは一日じゅう野ウサギを追いかけ、賭け事に熱中し、舞踏会に出かけました。パスカルはここで妙なことに気づきます。 彼らは、ウサギそのものが欲しいわけではない。店で買ってきたウサギを差し出されても、だれも喜ばないでしょう。パスカルの言い方を借りれば、人は獲物よりも狩りのほうを好むのです。 賭け事についても、パスカルは思考実験をしています。毎朝、その日に勝てるはずの金額を「ただし賭けはしないこと」という条件で渡してみる。その人は喜ぶどころか、不幸になる。反対に、何も賭けずに遊ばせると、今度は熱くなれずに退屈してしまう。 欲しいのは獲物でも賞金でもない。パスカルの答えはこうです。人が求めているのは、自分自身について考えずにすむ時間である。 静かな部屋に一人でいると、考えは自然に自分へ向かいます。自分はいつか死ぬこと。思っているほど強くも賢くもないこと。先のことは何ひとつ確かでないこと。パスカルはこれを人間の「みじめさ」と捉え、そこから目をそらす営みを「気晴らし(divertissement)」と呼びました。もとのフランス語には「向きをそらす」という意味があります。 大事なのは、これが怠け者の話ではないという点です。パスカルは、望むものをすべて手にした王でさえ、気晴らしを取り上げられれば「みじめさに満ちた一人の人間」になると書いています。戦争も、高い地位をめぐる競争も、パスカルの目には同じ「狩り」に見えていました。
それから350年以上たった2014年、バージニア大学の心理学者ティモシー・ウィルソンらが、科学誌『Science』に、パスカルの観察と奇妙に重なる研究を発表しました。 実験は単純です。参加者はスマホも本も持たずに、何もない部屋で6〜15分、ただ座って考えごとをするよう求められます。終わってから尋ねると、考えに集中しにくかった、気が散った、という答えが目立ち、平均するとあまり楽しめていませんでした。 さらに一つの実験では、部屋に電気ショックのボタンが置かれました。参加者は全員、事前にそのショックを体験し、「お金を払ってでも避けたい」と答えていた人たちです。ところが一人で15分を過ごすあいだに、男性は18人中12人、女性は24人中6人が、少なくとも一度、自分でボタンを押しました。 42人という小さな実験で、半分以上の人は一度も押していません。それでも、避けたいと言っていた痛みを、何もない15分の途中で自分から選んだ人がこれだけいたのです。 注目したいのは別の結果です。18歳から77歳までの一般の人を調べた実験では、考える時間をどれだけ楽しめたかは、年齢とも、スマホやSNSを使う頻度とも関係がありませんでした。スマホをよく使う人ほどじっとしていられない、というわけではなかったのです。 パスカルなら、順番が逆だと言うでしょう。スマホが私たちを落ち着きのない生き物にしたのではない。もともと部屋にとどまれない生き物の手に、スマホが渡ったのだ、と。 ただし、なぜ居心地が悪いのかまでは、この実験は答えていません。「自分のみじめさから目をそらしたいからだ」というのは、そこから先の、パスカルの解釈です。
人間が変わっていないのなら、変わったのは何か。気晴らしの側です。
表:人間の側は変わっていない。変わったのは気晴らしの側 パスカルの時代、狩りに行くには馬を出し、犬を連れ、仲間を集める必要がありました。気晴らしには手間がかかり、手間があるかぎり、そこには「行こう」という自分の意志が入り込みます。 いまは違います。動画アプリは、こちらが「退屈だ」と自覚するより先に、次の一本を流しはじめます。ウサギを追いかける必要はなくなりました。ウサギのほうから、途切れることなく走ってくるのです。 しかも、次に何が出てくるかは分かりません。当たりもあれば外れもある。パスカルが眺めていた賭博台と、よく似たつくりです。 終わり方も違います。昔の狩りには、日没という終わりがありました。ショート動画には、日没がありません。 もう一つの違いは、お金の流れです。貴族の狩りは本人の楽しみにすぎませんでしたが、広告で成り立つサービスでは、私たちが画面を見ている時間そのものに値段がつきます。経済学者ハーバート・サイモンは1971年に、情報が豊かになるほど人の注意は乏しくなる、と指摘しました。半世紀たったいま、その注意を集めて売る仕組みは「アテンション・エコノミー(関心経済)」と呼ばれています。 現代の気晴らしには、私たちの注意を長く引き留めておく経済的な理由まで加わっているわけです。スマホを置けないのは、意志だけの問題ではありません。400年前から変わらない性質に、仕組みのほうがぴったり噛み合っているのです。
動画は1.5倍速、移動中は音声、食事中も画面。時間を無駄にしない、いわゆる「タイパ」のよい暮らし方です。倍速で見ること自体が悪いわけではありません。 ただ、パスカルの目を借りると、別の問いが浮かびます。私たちは時間を節約しているのか。それとも、空白が一秒でも入り込むのを怖がっているのか。 節約した時間で何をしているかを見れば、見当はつきます。浮いた10分にまた別の動画を入れているなら、それは節約というより、すき間を埋める作業です。 パスカルは気晴らしについて、突き放した一文を残しています。気晴らしは私たちのみじめさを慰めてくれるただ一つのものであり、それでいて、私たちのみじめさのうちで最大のものである、と。慰めにはなる。けれども、それがあるかぎり、自分について考えずにすんでしまうからです。
ここで勉強の話をします。机に向かうというのは、文字どおり「部屋の中に静かにとどまる」ことだからです。 勉強中、とくにスマホへ手が伸びやすいのはどんな瞬間でしょうか。手が止まったとき。解説を読んでも分からないとき。間違いが三つ続いたとき。 難しいから逃げる、というのとは少し違います。難しい問題が好きな人は、難問ほど食いつきます。手が伸びるのは、問題が「もう嫌だ」「自分には無理だ」に変わった瞬間。つまり、「分からない自分」と向き合わされた瞬間です。これは、パスカルの言う「みじめさ」の小さな版に見えます。 そして、力がつくのはまさにその場所です。すでに解ける問題を解いているあいだは、新しい力はあまり増えません。分からないところで踏みとどまって考えた時間が、次に解ける問題を増やします。スマホに手が伸びる瞬間は、いちばん伸びる瞬間の一歩手前にあるのです。
パスカル自身がたどり着いた答えは、信仰でした。1654年11月23日の夜、「火の夜」と呼ばれる宗教体験をし、その後、キリスト教を弁護する書物のための断章を書きためます。それが死後に編まれて『パンセ』になりました。 ここで借りたいのは、パスカルの答えではなく、診断のほうです。スマホを封印する必要も、退屈をありがたがる必要もありません。やることは二つだけです。
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